さて、タイトルからして堅苦しそうなテーマですが、今日は、このテーマについて考えてみたいと思います。
みなさんは『この世界がどうしてこんな形で存在しているのだろう?』と考えた事はありますか?
或いは『どうして何かが存在しているのだろう?』と考えた事はありますか?
輪廻転生が真実という前提で考えると、私たちの意識は死後も永続する事になります。私たちは幾度も生まれ変わりながら、宇宙のいろんな側面を探る旅をしているのだと思います。
ですが、その旅の先にあるものは何なのだろうという事なのです。
死して無に帰するという考え方がありますが、この事についてちょっと考えてみましょう。
まず、既に何かが存在している世界においては、無と言う概念は考えにくくなります。
単純に考えて、死んだとき無に帰するとしたら、私たちの意識は途絶え、何も認識できなくなりますが、私たちの肉体を除いた世界は存在し続けることになります。
でも、ちょっと想像してみてください。何も認識できない状態って、考えられないと思いませんか?
死んで無に帰するとしたら、最初から何かが存在する必要性がないとも思えます。
無という概念は、有という概念を生む余地すらありません。そもそも何も無いからです。何も無いのでそれを認識する事もできません。認識する側も、認識される側も存在しないのです。
この世界においては、無という概念そのものがあり得ないものになります。なぜなら『既に何かが在る』からです。『この世界』という言葉が登場する時点で、何かがある事が前提になっています。
人間の死後に、『この世界という有』と、『死を迎えた私たちという無』の2つの世界が生まれ、それが同時に存在するなんて、あり得ないのでは?と思えてきます。
そもそも、無は何も存在しないのだから、無の世界という言葉自体が矛盾したものになります。
こんな風に考えていると、死んで無になる事はあり得なくて、『私たちの意識はやっぱりこの世界と一体なのではないか』とも思えてきます。
この世界を観察する視点が無ければ、この世界も存在し得ないのではないかとも思えてきます。
量子力学においても、観察する意識が事象に影響を与えると言われますね。
私たちの意識が存在し続けるとしましょう。すると、嬉しい半面、この世界って一体何なのだろう?という疑問や行き詰まり感も湧いてきます。
冒頭の『どうして世界はこんな形で存在しているのだろう?』『なぜ何かが無ければならないの?』という答えようのない疑問が湧いてきます。
でも、何も無い世界はあり得ないし、そうなると、やっぱり何かが存在するしかないのか・・・などいろんな思いが湧いてきます(笑)。
物理的な宇宙空間は良く出来ていると思います。銀河系があって、太陽系があって、地球があって、生物が生きられるシステムが上手くお膳立てされているからです。これは考えてみれば、かなり不思議なことです。
私は子供の頃、自分って何だろう?と考える事がありました。
例えば、
私は私だ。でも、私だと思っている私はどこから出てくるのだろう? 私を客観的に眺めると、何だか私が私じゃないような気持ちになり、不思議というか、もどかしい感覚になったのを覚えています(笑)
私たちが自分だと思っているのは自我であり、自我は創られた人格です。自分はこういう人間だと思い込んで、その人格を演じているのです。
でも、 その人格を観察しているもう一人の私もいる気がします。
さて、今日はこの辺にしておきましょう。
堅苦しい話に付き合っていただき、ありがとうございます。