私は精神世界のことをブログに良く書いていますが、たまに精神世界で言われていることは真実だろうか?と分からなくなることがあります。
例えば、死後も人間の意識は存続するのか、とか、この現実は本当に自分の意識の映し鏡なのだろうか、とかです。
ただ、形而上学的なことは、頭で考えて分かるものではありません。
人は、頭で考える時、往々にして左脳を使います。
精神世界を捉える時、右脳の感性がキーポイントになります。
今までの常識や固定観念で凝り固まっていると、感覚的なことが分からなくなります。
目に見えない世界を否定する人もたくさんいますが、そういう人はただ分からないだけだと思います。わからないものは否定したくもなるものです。
私もまだ分からない事だらけですが、一つ思うのは、人間って視点を変えるだけでこの世界に対する見え方がまったく変わってくると言う事です。
今までは、この宇宙空間の中に地球があって、その中に人間がいて、人間の肉体が死ぬと、その人間の意識も途絶える・・と認識している人が多かったでしょう。この認識では、私の意識が途絶えた後も、宇宙は存在し続ける事になります。
でも、初めに意識があって、その意識がそれ自体を表現したのがこの世界だった・・つまりこの世界は意識の創造物であり夢であり仮想空間であるという視点を採用するとどうでしょう。
それが真実かどうかはわかりませんが、同様に、前者のような唯物論的な認識も真実かどうかは分からないのではないでしょうか。
なぜなら、そこには単に認識の違いがあるだけだからです。どちらの視点も真実だと思います。見える人には見え、見えない人には見えない。どちらが真実かどうかを完璧に証明することなど出来ないのではないでしょうか。
よく、自分が信じたものを見ると言われますが、私の体験からも、それは本当だと思います。
人間は脳細胞を100%使えていないようなので、もし今までとは違った脳の使い方をすることが出来れば、今までとは全く違うことが分かるようになるのでは・・と思います。
私は、この世界の仕組みとして、自分が信じたことを体験する、というのがあると思います。
だとすれば、唯物論的な世界も、それを信じる人にとっては真実であり、その人はその信念が反映された世界を体験すると言う事です。同様に、精神世界や目に見えない世界を信じる人はそういう信念が反映された世界を体験すると言う事です。単に視点の違いがあるというだけですね。
目に見えない世界が存在することが正しいとか間違っているとかを議論するのは本質から一歩ずれているのではないかと思います。
この世界はなぜ、私たちが認識できる形で存在しているのでしょう?
この世界を認識する『視点』が無ければ、この世界も存在しえないのではないか・・ってたまに思います。
そうなると、やはり私という視点(意識)がこの世界そのものなのではないか・・と思えてきます。
量子力学においても、観察者の意識が、素粒子の振る舞いに影響を与えるということが言われています。
人間の体もこの世界のすべても、元をただせば、ミクロな粒子の集まりです。
マクロな視点で見ると、個々の物体や肉体は分離されているように見えますが、ミクロな視点でみると、素粒子の集まりがあるだけです。
そうすると、私たちの意識はどこに存在して、それは一体何なのだろう?とか、いろんな疑問が湧いてきますね。
こういうことって左脳だけで考えると全く分からなくなります。
こんなこと家族に話すと、『なに考えてるの?』と困った顔をされますが、こういう哲学的なことって好奇心をそそりませんか。
この世界は本当にまだまだわからないことだらけです。