私はつい最近までニートと呼ばれる状態でした。厳密にいえば、いまもニートのようなものですが、不定期とはいえ、仕事を始めたので、いちおう何もしていないわけではありません。
ニートの方であれば、家族と今後の進退について口論になることは良くあることだと思います。私もこれまで何度も口論しては決着がつかずということがありました。今日もちょっとした口論になりました。
私は現在農業のアルバイトをしていますが、これが不定期の日雇い労働なので、家族としてはアルバイトでも正社員でも長く続けられる仕事をして欲しいと思っていて、『仕事探してる?』とよく言われるわけです。
これに対して、私はちょっとイラッとして口論になります。というのも、私はこれまで3年くらい仕事をしていませんでした。確かにその期間は両親に多大なる心配をかけてしまいました。でも昨年末からようやく就職活動も始め、いくつもの面接を受けました。ただ正社員としては中々採用されないので、最近ではアルバイトから始めようと思い、いろんなアルバイトを探し始めています。
農業のアルバイトも知り合いに頼まれた仕事ですが、それなりにお役に立てていると思うし、日当も頂いています。普通に働いている人からすれば、ほんの少しですが、ニートの頃よりは進歩したと言えるでしょう。これはいわば肯定的な側面です。
しかし家族はその肯定的な側面ではなく、『仕事を探すのをちょっと休んだ』『日雇いは不定期だからいつまでも続けられるわけではない』という側面にフォーカスして、『仕事を探してるの?』と聞いてきます。
だからちょっとイラッとしてしまうのです。そこで議論が始まるわけです。『日雇いは確かに不安定だけど、アルバイトや正社員として就職したからといってずっと安定しているなんて言えないんじゃないの? 入社した翌月に会社が倒産したらどうするの?』とか
『一つの会社にずっと勤めるのは、収入の柱を一本に絞ることだから、その柱が折れたら終わりなわけで、それがどうして安定と言えるの? そう考えれば日雇いが不安定で正社員が安定だなんて言えないんじゃないの?』とか『ニートの頃より進歩したのは確実なのにどうしてそこに注目できないの? 言い方ってものがあるんじゃないの?』とか色々意見が出てくるわけです。
でも結局いつもこんな議論をしても自分が虚しくなるだけなんです。自分の言っていることも確かに一理あるとは思うけれど、実際問題家族のお世話になって生きているのは事実なわけで、その状況下で文句を言うのは筋違いなわけです。本当ならもっと感謝の言葉が出てきてもいいはず。こんな話、一人前に生計を立てている方からすれば、レベルの低い話に思えることでしょう。自分でも書いてて情けなくなります。
それなのに家族に反論するのは、どこかで自分を正当化したい気持ちがあるからだと思います。また、『仕事を探していない』のが図星だから腹が立つとも言えるでしょう。結局今の自分の状態に対して少なからず罪悪感を抱いていると言えるでしょう。
文句があるなら、家を出ていけばいいだけで、そうすれば家族にあれこれ言われる筋合いは無くなります。でもそれもしない。そんな自分が情けない。
さて、精神世界を学んだ方なら『状況は問題ではなく自分の在り方、捉え方が問題』であることを知っていると思います。
つまり、『仕事を探してるの?』という言葉をどう捉えるかは自分が選べるということです。
今日の私は、この言葉を否定的に捉えた為に家族と口論になったと言えます。
現在仕事探しをしていないのは悪いことであり、まるで『早く仕事をみつけろ!』という風に追い詰められているかのように聞こえたからです。
ただ、ちょっと次のように見方を変えてみましょう。
言い方はキツかったかもしれないが、親は親なりに私のことを心配する気持ちからその言葉を発したわけです。自分の子供を心から愛してくれているから、これまで長い期間寛容な目で見てくれたわけです。言葉そのものではなく、その背後にある気持ちを汲み取ると、ポジティブな側面を捉えることができます。
いずれにしても毎日食べさせてもらっているわけだから、それ自体は物凄く感謝に値することなのです。
それなのに文句を言ってしまう自分が未熟に思えてきます。文句を言っても仕方がないし、家族だからこそ文句も言えると思います。見ず知らずの他人ならば文句を言っても助けてはくれないからです。
そう考えると、あまりプレッシャーをかけられるのも不快ですが、なるべく早く結果を出していこう、それに向けてまずは行動してみようという気持ちが湧いてきます。
結局自分が相手の言動に一喜一憂しているだけなんです。相手の言動に巻き込まれるのを抑えて中立的な視点から物事を眺めると、穏やかな気持ちでいることができます。もちろん穏やかな心持ちで居たからと言って、状況が好転するかは分かりませんが、仮に状況が悪くなったとしても、その状況なりに生きていけばいいだけです。
家を追い出されるかもしれないという怖れや不安を抱えて生活するのではなく、家を追い出される現実を創ったとしても、その環境なりに自分で出来ることをしていくしかないわけで、そう考えれば、心に抱えていた怖れや不安などのネガティブなエネルギーが多少薄れます。
私の場合は『自分の思うように生きてみて上手く行かなくて死んでしまっても仕方がない』『いつ死んでも良い』と思って生きています。いつも色々と考えて結局はここに落ち着きます。
人は怖れや不安や苦しみから逃れようとします。しかし怖れや不安や苦しみを感じても大丈夫なのだということ、それで死ぬことはないということ、さらに死んでも大丈夫なのだということ、どんなに滅茶苦茶な状況になったとしても、それを体験できることに価値があり、それをどう捉えるかは自分次第だということを覚えておけば、大分心が楽になるのではないでしょうか? 人生は一度切りではありません。私はそう思っています。
ニートを追いつめる家族も、追いつめられるニートも、双方がそれぞれの肯定的な側面に目を向けることで、お互いに良い気持ちで居られるのだと思います。
人にはダメな部分があれば、良い部分もあります。それなら、その人の良い部分に目を向けることもできるはずです。
親であれ子であれ、一人の未熟な人間であることに変わりはなく、自分の理想の親子像を相手に望むからケンカになるのだと思います。
そう考えれば、相手に期待するのではなく、自分が変わろうという気持ちが湧いてきます。
物事の否定的な側面ではなく、常に感謝できる側面に目を向けることで、より楽観的に、幸せを感じて生きることができるのではないでしょうか?
自分でも完璧に出来ていないのに、偉そうなことを書いてしまいましたね。
読んでいただいてありがとうございます。