La mia armonia

精神世界やスピリチュアリティなど、ちょっと不思議な世界をベースに、人生を前向きに生きる考え方を提案しています。起業やビジネスについても書いています。

カルマは自分で選択している?

カルマ(業)について私が抱いている印象を書いてみますね。

 

カルマという言葉に怖い印象を受ける場合もあると思いますが、私の場合は、そのような印象はありません。

 

人生でネガティブな事が起きた時、例えば、過去世で悪いことをしたから、今生ではその償いをする為にこんな事が起きているんだ・・という捉え方もあります。

 

でも、すべて過去世が絡むわけではないと思います。

 

宇宙には、基本的に、『自分が与えるもの=自分が受け取るもの』という法則があります。

 

『与えるもの』とは、自らの心の在り方、考え方、価値観、自分が信じている事です。

 

自分の信じている事を体験する(受け取る)という意味です。

 

つまり、過去世云々の前に、今生での自分の心の在り方や物事に対する捉え方が、現実に影響を与えるという事です。もし、カルマに対して『怖れ』の感情を抱いていたとしたら、その怖れのエネルギーを反映するような体験をするという事です。

 

この世に対して持っている考え方によって、特定の感情が湧いてきます。どんな体験をしたとしても、特定の感情を感じるのは、自分自身の考え方に因るものです。

 

『償いをしなければならない』という捉え方は、人生の主導権を他者に委ねているから生まれてくるものです。人生は誰かに強制されて生きるものではありません。

 

自分の人生は、自分が創っていて、『人生で体験する事は、すべて自分に責任がある』と分かっていれば、上記のような考えは生じないはずです。

 

また、『罪』や『良い事』や『悪い事』という捉え方も、人間が創ったモノサシであり、本質的には、物事に良い事も悪い事も無いのではないかと思います。

 

人が生まれてくる目的は、ありとあらゆる二元性(善悪、優劣、正負・・・)を体験する為だと思うからです。

 

悪い事がどんなものなのかは、悪い事をしなければ分からないからです。

 

だからといって、悪い事を肯定しているわけありません。その体験自体に価値があるという捉え方もできるという事です。

 

罪悪感という強烈な感情は、魂レベルで刻み込まれると思うので、深くその体験を悔やみ、次の人生では、罪に報いる体験をしたいと自ら望むのだと思います。

 

魂としての、エネルギーのバランスを取る為に、過去世で誰かを苦しめた場合、今生では逆に苦しめられる体験を自ら望んでいるかもしれないという事です。

 

これが、いわゆるカルマと呼ばれるものだと認識しています。 

 

ただ、一つの見方として、人生がいろんな体験をする為にあるとしたら、罪悪感を味わうような体験をした場合でも、その体験自体に価値がある事が分かります。

 

そうすると、自分を赦すことが出来ます。完全に赦す事が出来なかったとしても、苦しみは薄れると思います。

 

自分を赦し、魂レベルで癒しが起こる事によって、魂としてのバランスがとれるのではないかと思います。

 

その結果、カルマの清算の為に、あえてネガティブな体験を選ぶ必要もなくなると思います。

 

結局はカルマも、魂の思い癖によって自分自身が引き寄せている体験だという事です。

 

また、この宇宙は、一人一人が体験している宇宙であり、他人の宇宙に干渉し合う事は出来ないとすると、他人を傷つけたとしても、その他人は、自分が創造した人生ゲームに登場する他人であり、本質的な意味において他人を傷つけることは出来ないのではないかという事も、上記のように考える理由の一つです。

 

人は、幾度も愚かな体験をして、気づきを得るプロセスを経る事に、何度も生まれ変わる意義があると思います。

 

そういう意味で、現代社会において罪や過ちを犯した人を必要以上に悪く言うのは、本質からずれているのではないかと思います。

 

もちろん、罪が肯定されるわけではありませんが、人生の本来の意味を考えた場合、その人の魂としての体験を尊重する事が望ましいのではないかと思います。

 

創造主(神)は人を裁く事はしないと思います。人もまた、人を裁く事はできないのではないかと思います。自分を裁くことができるのは、自分だけです。

 

私が創造主(神)に対して抱いているイメージは、既存の宗教的なイメージとは異なり、非常に軽いタッチの、いわば友達みたいなイメージです。

 

創造主(神)が私たちを創ったとすれば、神は私たちにどんな風に生きて欲しいと望むかと言われれば、『自由に体験したい事を体験して欲しい』と思うのではないかという事です。

 

親が子に無条件の愛を注ぐのと似ていると思います。

 

だから、良い事も悪い事も、その子が自分で体験する事に意味がある。神は助けてくれないと嘆くかもしれませんが、あえて苦しい体験や間違った事をする自由を与えてあげる事もまた、究極の無条件の愛の形だと思います。

 

これは、子供の教育にも通じる考えだと思います。親は、子供が人生で本当にしたいことを見つけられるよう手助けはしても、あれこれ口出しはせず、その子が自分の意思で体験し、気づきを得る事に重きを置く・・・感じです。

 

カルマは、怖いものでは無く、自ら選択している事だと思います。カルマだけでなく、この人生の一瞬一瞬も、自分が主体的に選択していく事が、本当の意味で自分の人生を生きていると言えるでしょう。