私は高専時代、右脳を活性化する事にワクワクしていました。音読、イメージトレーニング、残像トレーニング、自律訓練法、速読、立体視、1000コマフラッシュビデオなど、数種類のトレーニングを実践しましたが、その中でも特に熱心に取り組んだのが、『音読』です。私は『七田式超右脳開発トレーニング』という本の中で紹介されている『ガルシアへの手紙』を只管暗唱していました。
只管暗唱することによって、海馬の記憶が目覚め、質の高い記憶力が開花するという事に魅力を感じたのでした。
弘法大師空海が実践したと言われる虚空蔵求聞持法(こくうぞう ぐもんじほう)というものがあります。これは、真言を100万回唱え続けるという修行です。それによって空海は、現在でいうところの、右脳の驚異的な記憶力や直感を身に付けることが出来たと言われます。
只管暗唱は求聞持法のダイジェスト版とでもいうべきでしょうか。暗唱の題材は般若心経などのお経や、日本語、英語の文章など、なんでもいいと思います。ただ、言霊にはエネルギーがあるので、良い言霊の文章を繰り返し声に出すことが望ましいと思います。
ガルシアへの手紙には、日本語版と英語版がありましたが、私は英語版を選びました。外国語を学習する時に、目で見て、耳で聞いて、口に出すことが上達への近道であることを本で知り、英語上達にも繋がると思ったからです。
B5サイズで8ページ程の文章でしたが、最初はCDを聴きながら同時に口に出して発音していきました。
何回も音読していると、段々覚えてきて、やがてCDのスピードに負けないくらいの速さで完璧に暗唱出来るようになりました。いまでもところどころ覚えています。
毎日1時間の暗唱を3カ月ちょっと続けました。自分の中で効果の有無に関わらず3カ月は継続しようという決意がありました。
CDには2倍速と4倍速がありましたが、私は2倍速の音声に合わせて音読していました。1回約8分だったので、一時間に7回音読していた事になります。
今思えばよく続けたな・・と思うのですが、当時の私は、本当にワクワクしていました。トレーニング自体は単調ですが、右脳が活性化される事に対してワクワクしていたので、継続する事ができました。
暗唱できるようになると、勝手に口が動くようになります。暗唱しながら、他の事を考える事も出来たと思います。
ある時、暗唱中に、眠りかけてしまったのですが、その際、目を閉じているのに、目の前の机やCDプレーヤーが映像で見えた事がありました。
私の場合、只管暗唱や残像トレーニングを続けても、自分の意思で自在に鮮明なイメージが見えるようにはなりませんでした。しかしながら確実に右脳が活性化されていると感じる体験がありました。
例えば、うとうとしている時に、よく鮮明なイメージが見えました。また、何かに集中した後、折に触れて、先ほどまで見ていた風景が脳裏(瞼の裏)に『ちらついてくる』事が良くありました。
例えば、車のゲームに集中した後、昼寝をしていたら、眠りがけにゲームの映像が見えたり、ハンダ付けに集中した後だったら、基板の映像が脳裏にちらついたり。
透視を思わせる体験もありました。電車の中でうとうとしている時、目を閉じた状態で目の前の人や風景が見えた事もありました。
映像だけでなく、音も鮮明に聴こえるようになりました。眠りがけに、音楽が頭の中で鮮明に聴こえる事がありました。頭の中でリアルに音が鳴っている感じです。右耳の鼓膜の辺りが振動するような感覚もあります。
鮮明なイメージが見えるのは決まって眠りがけなどの半覚醒状態の時です。おそらく左脳の支配が緩み、右脳モードに移行する為でしょう。
あと、丹光が見えるようになりました。右脳トレーニングをする前から見えていたかもしれませんが、トレーニングを始めたことにより、意識するようになりました。
丹光とは、目を閉じた時に、瞼の裏に現れる光です。私の場合、紫色の光が見えるのですが、光というより、うにょうにょと形を変えて動く雲のようなヴィジョンと言えばいいでしょうか。うとうとしているときや何かに集中した時に、よく現れます。
うとうとが深まると、丹光の奥からヴィジョンが薄っすら見えてきます。丹光は目を開けていても見えます。
丹光は、人によって見える色が異なるようです。
一度だけ、すごく鮮明な夢を見た覚えがあります。
青い絨毯の部屋に横になっている夢なのですが、夢と言うよりも、自分が実際にそこにいる感覚です。絨毯の模様、肌触り、自分の身体の重さ、部屋の空気まではっきり感じられました。過去世やパラレルワールドの自分かもしれませんね(笑)。
面白いヴィジョンも見ました。轟音と共に、たくさんの文字が流れてくる鮮明なイメージが見えたり・・。
あと、私の場合、自分の掌のヴィジョンが良く見えました。手のしわまでくっきりと見えます。
いわゆる幽体離脱も結構ありました。身体は眠っているのに意識は割とはっきりしている状態です。身体がふわっと上に吸い寄せられる感覚でした。そのまま放っておくとどうなるか分からなかったので肉体に力を入れて、この次元に戻る感じでした。
また、ある冬のこと、学校の最寄駅に駐輪していた自転車の鍵が凍りついてもう何日も鍵が開かず、自転車に乗れない時がありました。そんなある日、通学の汽車の中でうたた寝をした時、自転車の鍵が開くヴィジョンを見たことがありました。その後、夢で見たヴィジョンの通りに鍵を回したら、見事に開いたことがありました。
当時はトレーニングの効果がいまいち感じられず、行き詰りかけていたのですが、こうして思い出すと、結構不思議な体験をしていました。
トレーニング、久しぶりにやってみたくなりましたね。社会人になってから左脳を使う機会が多く、せっかく開き始めていた右脳の能力が鈍ってしまいました。
最後に、私が只管暗唱に使用した『ガルシアの手紙』の中で印象に残っている一節を紹介します。内容的にも考えさせられます。このガルシアへの手紙は、1899年にアメリカの教育者、エルバート・ハバードによって書かれ、その後、1919年には原本が4000万部も印刷されるベストセラーになったそうです。いつの時代も、生きる上で大事なことは変わらないのだと思います(以下引用)。
『若い人たちに必要なのは、学校における机の上の勉強ではなく、また、あれこれの細かな教えてもない。ローワンのように背骨をビシッと伸ばしてやることである。自らの力で物事に取り組もうという精神を教えることである。勇気を教えてやることである。そうすれば、若い人たちは、信頼にそれこそ忠実に答えられる人物、すぐ行動に移せる人物、精神を集中できる人物となり、そしてガルシアに手紙を持っていく人物となれるであろう。』
『私の心が惹きつけられる人とは、上司がいようと、上司がいまいと、自分の仕事をきちんとする人である。そして、ガルシアへの手紙を頼まれたなら、その信書を静かに受け取り、馬鹿な質問をせず、近くの下水に捨ててしまおうなどとも思わず、ガルシアへ手紙を届けることに全力を尽くす人は、決して仕事をクビになる事はないし、賃金の値上げを求めてあれこれ画策することも必要でない。
文明とは、そんな人を求めて探し続ける一つの長い道程なのである。このガルシアに手紙を届けるような人の願いは何であろうと聞き入れられる。このような人は、どこの都市でも、どこの町でも、どこの村でも求められている。このような人は、どこの会社でも、どこの店でも、どこの工場でも求められている。世界中が、このような人間を、必死に、呼び求めているのだ。「ガルシアへの手紙を届けられる」人間は、どこでも、本当にどこでも、必要とされているのだ。』
精神世界や生き方についても記事を書いていますので、よろしければ読んでみてください。