人生は、やりたいことをやれたら、それで幸せなんじゃないかな・・と思います。
例えば、長生きできれば幸せというわけでもなく、短い一生だったとしても、その時間を使って心が震える体験が出来たなら、それもまた幸せと言えるのではないかということです。
私たちは、どうしても将来設計を考えてしまいます。
80年生きるとしたら、それを元に、仕事は何をしようか、働き方はどうしようか(雇われるか、自営業かとか)、結婚はどうしようか、子供はどうしようか、住む場所はどうしようか・・・ずっと雇われて働く場合、定年まで働いてそれからは貯金や年金を糧に生活しよう・・その為に、若いうちは働かなければならないという具合に、生き方の選択肢を限定してしまうのです。
本当は、今の仕事をしたいわけではないのに、老後を考えると、今は我慢して働くしかない・・と思っている人も多いでしょう。
実は他にやりたいことがあるにも関わらず、仕事を理由にそれを諦めている人もいるでしょう。
ただ、『私たちが一体なぜいまここにこうして生きているのか』について考えると、次のように考えることもできます。
私たちは、いろんなことを試すために生まれてきたはずで、だとすれば、やりたいことをやらないのは本来の目的からずれてしまい、何のための人生なのか分からなくなってしまう。
夢が叶うかどうかは分からないにしても、夢を実現するために、具体的な方法を考えたり、行動を起こしたりすらもしないのは勿体ないのではないか。
もし、お金が無い所為でやりたいことができないのなら、それを解決する方法を考えることはできるのではないか。
少なくとも、やらずに尻込みしているだけでは、人生は変わらない。
もし、老後のことを考えて、現在やりたいことができないのなら、老後のことなんて考えずに、今すぐやりたいことをやったら良いのではないか。
私たちが本当にしたいことは何なのか。私たちにとって本当の幸せとは何だろうか。ただ生きながらえることができれば、多少の我慢があっても、それで幸せだろうか。
天寿を全うできればそれで幸せだろうか。そもそも、天寿とはなんだろう。長く生きても、やりたいことが何一つできない人生よりも、ちょっとしか生きられなくても、本当にやりたいことができた人生の方が幸せとも言えるのではないか。
仮に、現在仕事を辞めて、やりたいことに全力を注いだ結果、食べていけなくなって、死んでしまったとしても、それはそれでひとつの幸せの形と言えるのではないだろうか。
このように考えることもできます。
私たちは、幸せの定義を、世の中の価値観に委ねてしまっている部分があります。
やりたいことをやろうという時でさえも、普通に働いて、普通に家族を持って・・という風に、ある種の枠にはまった生き方をしようとします。
でも、その生き方は本当に自分がしたい生き方なのか・・ということです。
私たちは、『自分がやりたくてやっている』と思っていることでも、よく考えてみれば、『世の中から提示された生き方を真似ているだけだった』ということが良くあります。
自分が本当はどうしたいのかを真剣に考えたり感じたりする作業をしてこなかったから、自分がどんなことに喜びを感じるのか、分からなくなってしまったのです。
やりたいことを実現できない理由に、時間やお金などはありますが、それを解決しようとしないなら、いつまでも、人生が変わることはありません。
出来る、出来ないに関わらず、『自分は出来る』と思うことは自由なのに、それすらもしない人がいます。
最初から出来ないと諦めてしまえば、もうそこから可能性が拡がることはありません。夢が実現する為の芽を、自ら摘み取ってしまっているのです。
案外、私たちが思い描いている『普通の生き方』を辞めれば、思ったより簡単にやりたいことが実現できるかもしれません。
その結果、人生が上手く行かなくなったとしても、長生きできなかったとしても、この世界に生まれてきた目的からすれば、十分成功した人生と呼べるのではないかな・・と思います。
なぜなら、私たちは長生きする為に生きているのではなく、心の震える体験がしたくて生きているからです。
そうすると、短い人生であったとしても、やりたいことが出来たなら、本来の目的は十分達成したことになるのです。
もちろん、そこまで思いきらなくても、お金と時間のバランスを保ちながらも、やりたいことを実現していく方法もあると思います。
ただ、ちょっと人生が無味乾燥な時は、こういう考え方を取り入れることで、元気が出て、生き方に対する視野が広がると思います。
読んでいただいてありがとうございます!