先ほど、記事を1300文字位書いた所で、突然ブラウザが閉じてしまいました。
Chromeを使っているのですが、執筆中に突然ダウンする事はこれまでも良くありました。
ただ、はてなの場合は直前の記事がバックアップされるので、安心して執筆する事ができていました。
ところが、今日はバックアップがなされず、せっかく書いた記事が水の泡になってしまいました。
書いていた記事の内容は、『断捨離』に関する事。
最初、いつものように『何だよ!ふざけるなよ!』とパソコンに向かって文句を言ってしまいましたが、今日は、ふと次のような事が頭をよぎりました。
『待てよ、こんな状況でも、最初から決まった意味は持っていなんだよな。文句を付けたくなると言う事は、既にこの状況をネガティブと捉えている証拠だよな・・』
最近忘れかけていた感覚をちょっと思い出せた気がしました。
それは、どんな状況においても『現実を楽しむ』という感覚です。
というのも、私たちは、現実を思い通りにしようとする余り、その瞬間の現実を楽しめていないばかりか、その後の現実が上手くいく可能性を奪っていると思ったのです。
『与えた意味によって現実が創られる』という考えを採用すると、思い通りにしようとする思いが、思い通りにならない現実を創っているのです。こうすれば思い通りになるという姿勢が、既に思い込みなのです。
本当は、思いもよらない方法で現実が展開する可能性があるのに、力み過ぎる事が原因で、可能性を狭めているのです。
状況を良くないものと捉え、文句を付けてしまうと、その瞬間が不快な気持ちで満たされてしまいます。その瞬間をあるがままに捉えることもできるのに、勿体ないことをしていると思うのです。
先ほど起きた、『記事が水の泡になる』というトラブルによって、『現実をあるがままに楽しむ』感覚を思い出す事ができたわけで、これは自分にとってポジティブな出来事と捉えることもできます。こうして記事にすることもできました。
もし、肯定的な捉え方をした所で、良い出来事に結びつかなかったとしても、少なくとも、その場では良い気分を味わう事が出来ています。
これは、人生の中ではちょっとした感情ですが、この積み重ねが、長い人生では時間差を置いて効いてくるのだと思います。
意識して習慣づける事が大事だと思います。
どうしたら状況に特定の意味を与えず、中立的に捉える事ができるか。
私の感覚では、ハートの感覚に意識を向けること、その為に心に余裕をつくることがポイントになると思います。
脳を使って思考するのを少し緩めて、ハート(心臓のあたり)に意識を向けてみてください。
現実をあるがままに捉えた時、どんな感覚になるかを説明すると、
『目の前の些細な出来事を微笑ましく感じる』
『自分が自由に意味を与えられるんだ!という新鮮で純粋な視点を持てる』
『何が起きても何となく大丈夫だという安心感がある』
です。
とはいえ、日常生活では、ハートの感覚が研ぎ澄まされることもあれば、頭でっかちになってハートの感覚が分からなくなることもしばしばです。
意識していないと、すぐに固定観念の罠にはまって、眠った生き方になってしまうからです。
私たちが普段どれだけ固定観念によって感情や思考を左右されているか、ちょっと考えてみてください。
驚くほど思考や感情をコントロールされている事に気が付くと思います。
基本的には普段生まれる思考と感情のすべてが、何らかの観念によって生じているのです。
心に余裕を作る為に、人生における『不要』を整理する事も大事です。
嫌いな事を続けていると、感性が鈍るだけでなく、人生に対する気力までもが奪われます。
そんな状態では心に余裕をつくる事は困難です。
何となく惰性で続けていることも、人生の貴重な時間を浪費しているばかりでなく、大事なことから意識を逸らせるトラップになると思います。
例えば、インターネットやテレビなどの娯楽です。何となくやっている事ですが、これらは意識していないとついのめり込んでしまう媒体です。自分ではない誰かの思考を無意識のうちに刷り込まれる危険があります。
ハートに刺激を与え、感覚を呼び起こす為に、単純に『心が震える体験』をする事も効果があると思います。
それは人生に大きな影響を与える人物や本との出会いであったり、自分を苦しめた挙句に得られる気づきなどです。
今日は、知らず知らずのうちに思考の罠に嵌るのを防ぐ為に、意識して知性(思考)と感性(ハート)のバランスを取る事の必要性を改めて感じました。
読んでいただいてありがとうございます。