多くの人は、『自分とは何者か』なんて考えることは少ないのではないでしょうか?
でも、私は最近そういうことばかり考えています。
今の時点で、自分、他人、この宇宙が何であるのかについての私の認識を整理してみます(随時更新予定)。
良く自分=宇宙だと言われますが、そうだと思います。
自分という括りを、自我だけでなく、この宇宙そのものまで広げてみるのです。
物理的な空間は確かに在るのだけれど、その空間は意識が創造した仮想空間という捉え方です。この宇宙は私たちの意識そのもの、意識の表現であるという捉え方です。私たちの意識は肉体の中にあるのではなく、意識の中に、肉体も海も空も森も宇宙空間も在るという捉え方です。
宇宙の万物を動かしているエネルギーがあって、それがわたしたちの意識という捉え方です。
ちょっと次のことを想像してみてください。
寝ている時に夢を見ますよね。
その夢はあなたの意識が創りあげたものであり、その中に登場する他人や空間はあなたが創ったものですよね。夢の中のあなたは、創られたあなたであり、本当のあなたではありません。夢の中で演じる自分も、いろんな自分がいますよね。
それと似たように捉えると何となく分かるのではないでしょうか?
私たちの多くは、今まで『肉体=自分』と疑わずに生きてきたし、普通に生活していれば、そうとしか感じられないわけなので、信じがたい話だとは思うのですが、どうもこれが真実のようなのです。
物理的な現実を生きていると、自我の働きにより、どうしても『わたし』という一人称を前提としてこの世界を捉えてしまいますが、私は、それがそもそも創られた視点ではないかと思っています。
私たちの本質は、大きな意識、この世界の存在そのものであり、私たちが『私やあなた』と呼んでいる人格(自我)もその一部なのですが、それは『意識が創造した宇宙』を観察する為の視点なんじゃないかなと思うのです。私たちは、本当は大きな意識なんだけど、それをあえて忘れた状態で、小さな意識(自我)だけに焦点を合わせているということです。
元々は、私も、あなたも、異なる惑星の宇宙人も、根底ではすべて繋がっていて、ひとつの存在、ひとつの意識ということになります。
私たちが元々ひとつの意識であるならば、個という概念が存在しないことになります。だからこそ私たちは、意識を小さな部分に分け、自我という視点を創り出し、『自分』という分離した視点を体験しているのだと思います。
生きる上で、苦しみや葛藤は付きものであり、私たちは苦しみから逃れたいと願いますが、実はその苦しみや葛藤こそ、分離した視点でしか体験できないことであり、本来の私たちからすれば、幸せなことなのかもしれません。
過去世や未来世や並行世界についても考えてみましょう。
時間は人間が創りだした幻想であり、この世界のルールみたいなものです。精神世界の分野ではよく『宇宙には今この瞬間しか存在しない』、『永遠なる今この瞬間を様々な角度から見ているだけ』、『時間は幻想』という事が言われますよね。
この認識では、過去や未来はありません。時間は人間が創ったモノサシなので、過去世も未来世も、永遠にある今この瞬間を違う角度から見ているだけという捉え方になります。
過去世や未来世や並行世界をすべて包括した意識の状態をオーバーソウルと呼ぶようです。といっても、自我意識では余りピンとこないですよね。
きっと、自我に意識を強くフォーカスしている影響で、それがわからなくなっているだけなんだろう・・と思います。ここに書いてある事は、あくまでも知識レベルでの理解ですが、実際に意識が拡大する体験ができれば、このことが感覚的に理解できるのだと思います。
私たちが『自分の過去世』だと感じるものは、単に魂に刻み込まれた記憶のようなものであり、今生の私たちの人格とは別人なのかもしれません。過去世の思い癖が刻み込まれたデータベースのようなものが魂であるとも言えます。
ただ、意識には本来、私やあなたという分離した視点が存在しないとすると、私の過去世、あなたの過去世というよりも、すべての人の過去世が自分の過去世なのかもしれません。
ただ、前世療法などでその人特有の過去世の記憶が出てきたり、その記憶によってトラウマが癒されたりする事から、ある人物の魂の記憶が、今生の私たちの魂と何らかの関係があることは確かなようです。
私たちの物理的な動きもまた、意識の視点が毎瞬毎瞬変わっただけという見方ができます。意識の視点が変わるごとに異なる並行世界に移行しているという捉え方です。よくバシャールの本に書かれていますね。
無数の世界が可能性としては既に存在していて、私たちの意識がどのチャンネルに合っているかによって、掬い取る世界が変わるという事です。
並行世界は、ラジオやテレビのチャンネルのようなものとよく言われます。いろんな放送局が同時に存在していますが、どのチャンネルに合わせるかによって聞こえる(見える)放送局が変わるという事ですね。
日常生活や人間関係でも同じです。
自分がどんな気持ちでいるかによって、同じ人、同じ状況を目にした時に掬い取る事が変わりますよね。良い気分でいれば、その人の肯定的な側面を感じ、イライラしていれば、その人の否定的な側面に目が行くという事です。
ある意味では、同じAさんでも、私が良い気分の時に認識するAさんと、イライラしている時に認識するAさんは並行世界の住人であり、無数の可能性を持ったAさんがいる世界の中から、その時のAさんがいる世界を掬い取ったという事になります(笑)
さて、中々浮世離れしたお話をしてしまいましたが、ここまで読んでくださった方はどう思われましたか?
私自身もたまに読み返してみると、『この人頭大丈夫かな・・』と思うことがあります。でも、そう感じるのは現実に強く意識をフォーカスしている時です。思考優位になっている時と言っても良いですね。
逆に、ここに書いてあることが妙に腑に落ちる時もあります。その時は感性が優位になっています。頭で考えると『何でこんなこと考えてるんだろう』と思う時もあるけれど、どこかでこんな不思議な世界が『真実のような気がする』自分もいます(笑)。
読んでいただいてありがとうございます。