La mia armonia

精神世界やスピリチュアリティなど、ちょっと不思議な世界をベースに、人生を前向きに生きる考え方を提案しています。起業やビジネスについても書いています。

ニートは悪いことだろうか。何を善とし、何を悪とするかは難しい。究極的には善悪はないと思う。

私は現在いわゆるニートをしています。

 

もうすぐ3年になります。

 

もう長い事家族のお世話になっていて、やはり罪悪感を覚えることもあります。

 

現代社会では、仕事をして対価を得る際、自分が与えたサービスの価値が大きければ、それだけの対価を得ることができます。

 

お客さんが必要としないサービスや価値のないサービスは、それが無料であったとしても必要とされません。

 

価値を感じるサービスは人によって違いますので一概には言えませんが。

 

そうすると、何らかの価値を提供できる人は豊かになり、そうでない人は豊かになれないわけです。

 

でも、それでは『無能な人は死んでもいい』と言っているようなものです。

 

私はそこに違和感を覚えます。

 

現代社会にはそういう側面があるからです。

 

能力、富、豊かさはみんなで分かち合う為にあると思っています。

 

いくら私がこんなことをぼやいたとしても、世の中が変わるわけではないし、身寄りがいなくなれば、誰も助けてはくれないでしょう。

 

私だって見ず知らずの人が生活に困っていたからと言って、その人を助けることができるわけではありません。

 

そこに無力感や寂しさを感じてしまいます。

 

生きていく上で、根底にあるべき安心感が欠けています。

 

例えば、自分一人で生きていかなければならなくなって初めて、家族の優しさや愛が身に染みて分かるのだと思います。

 

自分が愛を受けたように、関わる人や世の中の人に親切にしようと思えてきます。

 

私は今、ニートながら幸せな生活を送っていますので、ここに書いてあることは想像ですが、こういう事を考えていると、今自分がどんなに幸せかが見えてきます。

 

例えどんな境遇に置かれたとしても、世の中の風当たりが冷たかったとしても、その環境なりに、精一杯生きて、他人に親切に接しよう・・そう思います。

 

家族や親しい人になら弱音を吐いたり、頼ったり出来ますが、見ず知らずの人にそうするのは難しいと思います。

 

でも、これからは、もうちょっとお互いに与え合って生きていくことが、皆が幸せに暮らす為のキーポイントになると思います。

 

簡単ではないけれど、他者に対して信頼感をもってみること。自分の持っているものを惜しみなく(無理のない範囲で)与えあい、循環させて行く事。

 

自分は長い事ニートしてて、家族に負担をかけたけれど、この世で体験するどんなことにも価値はあるという事が分かっていれば、そこまで自分を責めることは無くなります。

 

究極的には、善悪の二元性でこの世のことを裁くことは出来ないと思っています。

 

ただ、ニートなりに感じ、考えたことはたくさんあります。

 

それを、こうやって文章にしたりすることはできます。

 

今までいろんな人にお世話になった分、これからは自分が働いて家族や世の中に恩返ししたいと思うようになりました。

 

自分が受けた愛を、社会に還元する。人の為に働く。人に親切にする。それがまた循環していくことを願って。

 

もちろんそれも自分がそうしたいからそうするというだけであって、善悪で測れることではありません。すべては自分の選択によることだと思います。

 

善悪の基準は人によって違います。また、善悪の理想が高ければ、それだけ失敗が許せなくなります。人は完璧に生きることはできません。失敗して分かることもたくさんあります。

 

この世に生まれてきた目的は、何かを成し遂げることや、何かを上手くいかせる為ではなく、体験から何かを感じ、何かを考え、何かを学ぶ為・・だと思います。

 

こういうことは中々難しいテーマですが、こんな機会だからこそ考えられるわけで、貴重なことだと思います。