La mia armonia

精神世界やスピリチュアリティなど、ちょっと不思議な世界をベースに、人生を前向きに生きる考え方を提案しています。起業やビジネスについても書いています。

戦国時代に興味をもったきっかけ

自分の魂の系譜を知る為に、自分の『好きなこと』が参考になると思います。

 

例えば、好きな時代、好きな国があったとすれば、その時代やその国で過ごした人生があるかもしれません。もちろん、あくまで空想ですが、単純に好奇心をくすぐる話だとは思います。

 

私は日本の戦国時代に惹かれます。甲冑や刀剣などにも不思議な魅力を感じます。刀については、子供の頃から好きでした。玩具のプラスチックで出来た刀を腰に差して、遊んでいました。 

 

また子供の頃、友人宅の座敷に日本刀が飾られていて、どうやら模造刀だったようですが、不思議な魅力を感じたのと同時に、行く度に触ってみたいと思っていました。るろうに剣心というアニメも好きでした。

 

今も、別の友人宅にある模造刀を遊びに行く度に触ってしまいますので、周りの友人からはいつも笑われています。

 

昔、銃器にも興味がありましたので、戦争中、どこかの兵隊(陸軍?)だった過去世もあるでしょう。

 

さらに、飛行機、特に戦闘機が好きなので、パイロットをしていた事もあるかもしれません。

 

さて、私が日本の戦国時代に興味を持ったきっかけは、17、18歳の頃、日本史の講義で、地元の中世について知る機会があったからでした。当時、その内容に異様にワクワクしたのでした。

 

テストもほとんど勉強しないで良い点数が取れた覚えがあります。それだけ興味を掻き立てられたという事です。

 

『奥羽永慶軍記』という、戦国時代の東北について江戸時代中期にまとめられた軍記物があります。主に永禄〜慶長年間(1558〜1615年頃)の出来事について記載されていることが、軍記名の由来となったようです。講義ではその中の一節、現在の秋田県南部(横手)を治めていた戦国大名、小野寺氏の興亡について取り上げられたのでした。

 

天正14年(1586年)、山形城主最上義光と小野寺義道の間で真室川(現在の山形県真室川町の辺り)の領有権を巡って『有屋峠の戦い』が起こりました。永慶軍記には合戦の一部始終が記載されており、その内容にとってもワクワクしたのを覚えています。

 

有屋峠は現在は廃止された旧道ですが、戦国時代までは、現在の秋田県山形県の内陸部を結ぶ主要道として機能していました。インターネットで現在の写真を探してみましたが、険しい山道で道幅も狭いです。永慶軍記によれば、この峠を挟んで数千の軍が対峙したとあります。

 

兵力は小野寺勢が5000余騎、最上勢が10000余騎と伝えられます。狭い峠道の為、両軍共に迂闊に戦闘を開始できず、序盤は睨み合いが続きました。

 

そこで小野寺家重臣の八柏大和守道為という人物が、最上勢を挑発する為に、部下の中から鉄砲の名手を30人ほど選び、陰から最上勢に鉄砲を撃ちかけさせました。この射撃で最上勢先頭の7、8騎が討たれました。この挑発に乗った最上勢は狭い峠道に押し寄せ、小野寺勢はこれを次々と討取りました。最上勢の死者は1000人に上ったと言われます。合戦の序盤は小野寺方優勢でしたが、後半、逆に最上勢に押され、小野寺方も多くの犠牲者を出しました。結果、勝負がつかず両軍撤退という形になりました。

 

有屋峠の戦いにその名前が登場する八柏大和守という人物は、有能な人物であったようです。有屋峠の合戦後も、大和守の存在を疎ましく思った最上義光は、重臣の楯岡豊前守満茂らと謀略を企てました。大和守に宛てて、大和守と最上家との内通を匂わせる偽状を送り、それをわざと、小野寺義道の弟の家に誤配と見せかけて届けさせ、書状を義道の目に触れさせるようにしたのです。

 

義光の策略にはまり、偽の書状をみて疑心暗鬼になった義道は、道為を横手城に呼び出すと見せかけ、彼の登城途中に家臣らに暗殺させてしまいました・・・さらにその子供(当時10代)も殺害されてしまいました(諸説有り)・・という悲しい歴史があるのです。

 

この時、道為の首を刎ねた家臣の一人が黒澤甚兵衛という人物で、彼は後に秋田藩主佐竹氏に仕えることになります。この人の子孫の屋敷が現在の秋田市一つ森公園に移築されて残っています。

 

戦国時代というのは家臣といえども信頼関係を築くことは簡単ではなかったのでしょうか。固い信頼で結ばれている主従ならば、相手の策略だと分かるだろうし、すぐに斬ったりはしないと思います。

 

さて、有能な家臣を失った小野寺家は、その後、領内への最上氏の侵攻を許し、徐々に衰退していくことになります。大和守が暗殺されたのが1595年頃です。

 

豊臣秀吉が発布した惣無事令が、既に全国まで届いていた頃ですが、直接合戦を仕掛けることはしなくても、このような謀略が行われていたのですね。

 

慶長5年(1600年)、関ヶ原本戦では徳川方が勝利しましたが、義道は豊臣方に通じていた為に周囲の徳川方の大名が率いる大軍に攻撃されました。横手城から西に15km程の所に位置する大森城を徳川方の大軍に包囲されたのです。大森城には義道の弟の小野寺康道という人が立て篭もり、守戦しました。守勢も粘り強く、決着がつかず、和議を結ぶ形になりました。小野寺家は後に改易になり、義道は石見国の津和野に流罪となりました。ここに、戦国大名小野寺氏は滅亡したわけです。

 

小野寺氏の本城であった横手城は、現在も残っています。江戸時代、秋田藩主佐竹氏の支城の一つとして一国一城令を免除され、幕末までお城としての機能を維持して来ました。

 

東北地方の戦国大名といえば『伊達政宗』の名前が挙がりますが、それ以外は、大きな勢力は少なく、歴史の表舞台に出てくる事は多くありません。

 

現在の秋田県では、安東氏、戸沢氏、浅利氏、六郷氏、小野寺氏、由利十二頭(由利地方の諸豪族の総称)などの小規模勢力が群雄割拠している状態でした。石高にして多く見積もっても~20万石くらいの規模の大名です(多分)。伊達政宗の最盛期の石高が110万石くらいなので、それに比べると規模は小さいです。

 

お話したように、私は学生時代、戦国時代の秋田という割とマニアックな内容について知る機会があり、それがきっかけで、戦国時代が好きになりました。その影響で、大河ドラマも見るようになり、今でも戦国時代の話であれば必ず見ています。

 

講義は日本史の教科書を全く使わず、秋田の戦国時代~江戸時代に特化した内容でしたが、自分にとって大変興味が湧いた内容でした。

 

もしかしたら、自分の過去世とも関係あるかもしれません。その時代、秋田にいたのかもしれません。自分が惹かれるものやワクワクするものには何らかの意味があると思います。

 

その講義の翌年、自動車免許取得の為、友達の紹介で、なぜか山形県新庄市に合宿に行きました。小野寺氏と最上氏の合戦があった有屋峠を越えた先にあるのが新庄市で、嘗ての最上領です。奥羽永慶軍記に登場した最上家の武将の名前(安食など)が、当時も街中に名前として残っていました。

 

また新庄は、戦国時代に秋田県の角館に勢力を持った戸沢氏が、江戸時代になり国替えで入部した土地です。城跡が『最上公園』になっていたので、合宿期間中に散歩したのを思い出しました。今思うと、何か縁があるかもしれませんね。

 

すべて過去世に結びつけるのも早計ですが、そういうロマン溢れる話は大好きです。

 

過去世とは全く関係なく、戦いや武器や乗り物は、男性なら好きな人が多いと思いますので、私も単にそれと同じ部類かもしれません。

 

戦国時代は好きですが、この時代は荒んだ時代だったんじゃないかと思います。

 

戦国時代当時は、隣国を攻めるという表現になりますが、現在ならば、隣の県に軍隊を率いて攻め込む事と同じです。現在の規模に置換えたとしても、他国に戦争しに行くのはやはりおかしいです。

 

例えば、武田晴信(信玄)は、元々甲斐の戦国大名ですが、信濃駿河に侵攻して領土を拡大しています。現在でいえば、山梨県から長野県や静岡県に軍隊を率いて攻め入ったことになります。

 

当時は戦車や飛行機は無く、馬や徒歩で行軍するので、遠いですけれどね。人間の視野の広さや技術の進歩が、価値観にどれだけ影響を与えるのかが分かりますね。

 

そういう意味で、本当に過去世でそのような荒んだ時代に居たのなら、ワクワクではなく、ネガティブな感情が湧いてくるのかもしれません。ドラマや歴史書で見るのと、実際にその時代に生きるのとでは、感じ方が違うと思うからです。

 

大河ドラマでは戦いの歴史ばかりを取り上げますが、これからの時代には、そぐわないかもしれません。

 

競争社会が終わり、皆で分かち合う時代に入ろうとしているのに、いまだ戦国ドラマが人気なのは、どこかおかしい気もしますが、血気盛んな競争好きが多いのかもしれません。

 

私も、平和な社会が良いな・・と思いながら、戦国時代の国取り物語にも魅力を感じてしまう人間です。

 

本記事書いた様な内容も『わたし』という人間を構成するパズルのピースの一部です。