La mia armonia

精神世界やスピリチュアリティなど、ちょっと不思議な世界をベースに、人生を前向きに生きる考え方を提案しています。起業やビジネスについても書いています。

真面目な人がいても良い 怠け者がいても良い

引きこもりやニートも余り長く続けていると、飽きてきます。

 

引きこもりやニートと言うと、一般的には肯定的なイメージを持たれにくいと思いますが、私はこの状態を悪いとは思っていません。

 

罪悪感はほぼゼロです・・というのは冗談で、ちょっとはありますが、そんなに思いつめてはいません。

 

私の場合、家に居る事が多いですが、オートバイに乗って遠くまで泊り掛けでツーリングに行ったり、一人で飲みに行ったりもしますので、割とアクティブな部類のニートになると思います。

 

ただ、2年以上もこの状態を続けているので、最近はさすがに飽きてきて、就職活動をしているわけですが、案外このライフスタイルは自分には合っているかもしれません。

 

贅沢な悩みかもしれませんが、何事も飽きるまでやってみることは価値があると思います。

 

働く必要がなければ、ズルズルとこの状態を続けてしまうのも自然なことと思います。

 

働きアリの法則というのを聞いたことがあります。もしかしたら話が間違っているかもしれないし、そんな話は無くて、私の妄想かもしれませんが、その場合はご容赦ください。

 

アリの巣にいるアリ全体を10として、そのうち2割が優秀で一生懸命働くアリ、6割が適度に働いて適度に怠ける普通のアリ、残りの2割が怠けて全く働かないアリに分けられるとします。

 

この中から、2割の全く働かないアリだけを外に取り出して、しばらく様子を見ると、残ったアリたちの中からまた怠け者の全く働かないアリが2割出現するという話です。

 

それは何回やっても同じ結果になるようです。

 

アリの生態は、より自然の摂理に沿っていると思いますので、地球にとって自然な状態というものを考えたとき、みんなが優秀で一生懸命働いている状態は、不自然であるという見方もできることになります。

 

人間もこの自然の一部ですので、みんなが一生懸命働いたら、自然のバランスが崩れるかもしれないと言う事です。

 

まあ、人間社会とアリの社会を一緒にするな・・という話も出てくるとは思いますが、一つの見方としては面白いと思っています。

 

だからって、働かなくてもいいというわけではないですが、『働かない事は悪』という考え方は、現在の人間社会の枠組みの中において生まれた一つの価値観に過ぎないと言う事です。

 

社会の構造が変われば、常識は変わります。

 

400年くらい前の社会では、日本国内でも、生活の為に人を殺して居たわけですが、現代社会においては、当然そのような行為は非常識になります。

 

現代もテクノロジーの進歩は著しいですが、もう100年もすれば、現在よりも遥かに高度な技術が実用化されているのは想像に容易いです。

 

技術が進歩して、人間が多くの時間働く必要が無くなったとすると、その社会においては、必ずしも働かない事=悪とはならないわけです。

 

そもそも、人の生活を豊かにする為に技術が発展してきたのに、働く必要がなくなったとしても、無理矢理仕事を創ってみんなで働こうという考えはどこかおかしいわけです。

 

人間は好奇心旺盛な生き物なので、生活の為に働く必要が無くなったとしたら、本当にやりたいことを仕事にしようと思うはずです。

 

世の中を見渡した時、有能で、一生懸命働きたいと情熱に燃えている人はたくさんいるわけです。

 

現在の自分も、有能ではありませんが、情熱に燃えているという意味では、この部類の人間に入るでしょう。

 

同様に、やりたいことは特別ないけど、生活できる程度に働ければいいや・・って思っている人もたくさんいるわけです。

 

同様に、前の仕事で病んじゃってしばらく休みたいって思っている人(数年前の私)もたくさんいるわけです。

 

その人たちは、もし安心して休める環境があれば、しばらく療養した後、情熱が回復するのを待って、また新しい仕事に向かっていく事ができます。

 

その時に、今まで一生懸命仕事ばっかりしてきたから少し休みたいって言う人がいたら、今度はその人が安心して休めばいいと思うのです。

 

みんなが今の仕事にしがみついちゃうと、空きスペースや流動性が無くなって、社会が停滞するかもしれないのです。

 

人の動きが停滞するのは、みんなが怖れや不安に怯えているからです。

 

やっぱり、他人は他人だから、家族みたいに無条件に信頼できないんです。

 

まあこれは自然なことですが、これからの社会は、もっと他者への壁をなくす(その為には自分の中にある怖れや不安を少しずつ手放す)ことによって、生きやすくなる部分があるのではないかと思います。

 

家族の間では、家にある食べ物や道具、設備はみんなで共有しているわけです。

 

別に、家の人が冷蔵庫の中にあるアイスを勝手に食べたからといって、お金を請求することはないわけです。

 

ところが、外にでた途端、なにかサービスを受ける為には、お金が介在する必要があります。

 

お金は便利な側面もあります。

 

好きでもない人と多種多様な取引が成立するのは、お金を介してサービスを提供することができるからです。

 

そういう意味で、お金が悪いわけではありません。

 

お金は単なるツールなので、それを使う人のお金に対する姿勢、お金に対して持っている感情や思考が大事になると思います。

 

お金を悪い物と捉えると、お金に嫌われるので、お金が逃げていっちゃうよ・・という類の話も耳にします。

 

私は以前お金のシステムがない社会の方がみんなが幸せに暮らせるのではないかと考えていた時もありましたが、現在では、必ずしもそうでなくてもいいんじゃないかと考えるようになりました。

 

なぜなら、お金に困っている人の場合、お金が悪いのではなくて、お金を使う人の考え方に問題があるからです。

 

お金のシステムを無くしたとしても、人の意識が変わらなければ、多分また豊かな人と貧乏な人に分かれるだけだと思うからです。人類の意識が、お金や生活していく事に対する怖れや不安を完全に払拭出来た時にはじめて、お金というツールが無くても回っていく社会が実現するだろう・・と思います。

 

私は、どんな社会のシステムだったら、みんなが幸せに生き生きと暮らせるか・・・といったテーマについて考える事が好きです。

 

このテーマについて、また書こうと思います。