ネガティブな体験は、人間としてのバランスを取る為に、ある程度は必要かもしれない。
自信を持つことは大事だけれど、そこに謙虚さが伴ってこその自信だと思うから。
辛い気持ちを味わうからこそ、人にやさしくしようと自然に思えるようになると思う。
前はそういう気持ちになると、くよくよして長い間引きずっていたかもしれないが、最近ではむしろ、感謝の気持ちが湧いてくる。
辛い気持ちを味わうことで、『優しさ』について学ぶことができると思うようになったから。
ある意味で、自分が辛い気持ちになった時に、そういう優しい気持ちも同時に生まれているわけで、そんな気持ちになれた事が嬉しいと感じる。
他の人にも優しく親切に接しようと思えてくるわけだ。
どう生きるべきかという理想は頭で考えることができるけれど、心の震える体験を通して味わった感情が無ければ、そのような理想の数々も薄っぺらい言葉だけになってしまうのだと思う。
数年前に比べて、メンタル面では確実に強くなった自分がいる。
でもそれは、ネガティブな事をたくさん体験して、多くの葛藤に苛まれ、深く考える時間をたくさんもったからこそ得たものでもある。
前の自分は、怖れや不安といったネガティブな感情を味わいたくない気持ちが強く、行動せずに逃げていた部分が多かったが、今は、怖れや不安を感じても大丈夫だと思っているので、前に比べたら積極的に行動できている自分がいる。
怖れや不安を味わうことは今だって心地いいとは思わないが、それを必要以上に怖れてはいない自分がいる。
人は、感情が大きく揺さぶられる体験をしてこそ、意識が大きく変わり、結果として人間的に変われるのだと思う。
そういう意味で、今後の自分は、もっともっと行動して、いろんな感情を味わって、葛藤して、深く考えていけばいいのだとも思える。
悩み苦しむことは悪い事ではない。
あまりそればかりだとバランスを崩すけれども、人生のスパイス的な意味合いで、たまにネガティブな体験も必要なのかもしれないと感じる今日この頃。
生まれてきた目的を考えると、悩み苦しめることは、実は大変幸せな事だとも思える。
ネガティブな事を体験することで、日常の何でも無い事、当たり前だと思っていた事のありがたみ、幸せに気づくきっかけにもなる。
日常の些細なことにも幸せを見出せるようになると、人生で何かを成し遂げる事も有意義だが、そうでなくとも、何でもない日常を淡々と暮らせる事もまた、大変幸せなことなのだと思うようになる。
人と違っていてもいい。
同じ人なんてひとりもいないのだから。
単に個性の違いというだけで、どれが優れているとか劣っているとかではない。
他人を見て、劣等感を感じるのは、自分の持っている観念や信念(思い込み)に因るもの。
その思い込みも、何が正しくて何が間違っているかと言う事もない。
ある意味で、他人と比較することで劣等感や苦しみを味わえる事すらも、実は貴重なことなのかもしれない。
違いが無ければ、優劣や善悪の二極は生まれず、比較して苦しんだり喜んだりすることもできないから。
そういう意味で、この地球は、いろんな二極を体験する為の深い深い学びのステージなのだと思える。
自分はいま与えられた身体と環境で体験出来る事を感謝して味わえばいいのだとも思える。
病気でも障害でも人生で起こる種々の問題でも、その体験をしなければ分からない事がある。
人と比較することは構わないが、それを、自分と他人を傷つける方向に使っては、苦しくなるだけだ。
せっかく与えられたこの身体とこの命を傷つけるのではなく、慈しみ感謝して生きよう。同様に、今まで関わってくれたすべての人たち、これから関わっていくすべての人たちを大切に思い、感謝して生きよう。
そのように生きることが正しいとか間違っているとかではなくて、単に、自分がそうしたいと思ったからそうするというだけでいい。
自分は自分の人生で得てきたこと、自分が信じることを表現して、それを多くの人と分かち合って生きればいいではないか。
それがライフワークに繋がっていく。
願わくば、いつもこのような優しくも強かな気持ちでいられたら、毎日が幸せに感じられるだろうと思うが、そうもいかない時もあるだろう。
それはそれでいい。
あっちこっちに振れていたとしても、バランスを保ち、調和した自分を見失わなければ、大丈夫。
私の場合、辛い事や苦しい事があってこそ初めて、本来の自分らしさが輝きを放つ気がする。
無理に格好つけて他人みたいになろうとしなくてもいい。
そういう謙虚な気持ちで毎日を生きて行きたい。